重要文化財 武家屋敷門
重要文化財 武家屋敷門

紹介

元治元年(1864年)に再建された武家屋敷門は、切妻造本瓦葺きで、裄(けた)行(ゆき)21.8m、梁間(はりま)4.7mの規模を持つ国の重要文化財です。
平成28年(2016年)に山脇学園新校舎建築事業の一環として、千葉県九十九里町にあったこの門を赤坂に移築しました。
本校ではこの門を“志の門”と呼んで、入学式や卒業式など節目の日に開門して、生徒が志を新たにする機会としています。

 

◇沿革

<建設>

武家屋敷門は、八重洲大名小路の一角(現千代田区丸の内二丁目、旧東京中央郵便局周辺)に、当時老中職であった岡崎藩五万石、本多美濃守忠民の江戸上屋敷の表門として、文久二年(1862年)の同屋敷火災の後、元治元年(1864年)10月ごろまでに再建されたとされる。その規模は大名小路に沿って南北120メートルに及ぶ長大な屋敷門であった。

<明治維新>

明治維新において本多氏が屋敷を退去した後、新政府が屋敷を接収し、政府要職に任命された九条道孝の公邸とした。明治4年(1871年)司法省開設にともなって、その庁舎に充てられた。

明治30年(1897年)に武家屋敷門を含む建物が宮内省所管となり、屋敷地及び建物の大部分が宮内省から私立海軍予備学校に払い下げられた。

<霞が関へ移築>

明治32年(1899年)に海軍予備学校が霞ケ関二丁目(現霞ケ関一丁目)に移転となり、同校の表門として、現在の同規模の両番所を持つ門構のみが移された。その際、屋根形式は入母屋造に改造し、門の内側に庇を設けるなどの小改造が加えられた。

海軍予備学校は、明治33年(1900年)に海城学校、明治39年(1906年)に海城中学校と改称した。昭和2年(1927年)に海城中学校学校が新宿区大久保に移転する際にこの門は現地に残され、いったん国有化された。

海城中学当時の武家屋敷門 (出典「海城六十年史」)

<白金台へ移築>

国有化された門は、実業家の藤山雷太氏に払い下げられ、昭和6年(1931年)に芝白金の藤山氏の自邸に移された。その際、背面の庇を撤去して、新たに両側面に附属室を増設し、錺(かざり)金具などを新しくするなどの改修が施されたが、全体としては従来の姿を保った。

藤山邸は表門も含めて第二次世界大戦の東京空襲に焼失することもなく終戦を迎え、昭和20年(1945年)から約6年間米軍の将校宿舎に使用された。

その間、この門は昭和22年(1947年)2月に国宝に指定され、昭和25年(1950年)9月に文化財保護法施行に伴い、重要文化財に指定替えとなった。

藤山邸は昭和26年(1951年)イタリア大使館舎に貸与された後、昭和39年(1964年)に近畿日本鉄道株式会社に買収された。

 

藤山 雷太邸当時の武家屋敷門 (公益財団法人文化財建造物保存技術協会 提供)
藤山 雷太邸当時の武家屋敷門 (公益財団法人文化財建造物保存技術協会 提供)

<山脇学園松籟荘へ移築>

近畿日本鉄道株式会社が藤山邸周辺に高層ホテル建設(現シェラトン都ホテル東京)を計画したことから、同社社長の佐伯 勇氏は縁戚関係にあった山脇 穣氏が理事長を務めていた山脇学園にこの門の寄贈を申し出た。申し出を受けた山脇学園は、この門を千葉県九十九里町にあった臨海施設松籟荘に移築した。松籟荘は、山脇学園短期大学の学生および山脇学園中学校の生徒の臨海学校として利用されたが、平成30年(2018年)閉荘した。

松籟荘当時の武家屋敷門
松籟荘当時の武家屋敷門

(参考)武家屋敷門移築の歴史